この2月に公立全寮制男子中高一貫学校の鹿児島県立楠隼中学校・楠隼高等学校を見学してきたのだが、寮はお金かかってた。カメラを持っていったのだが写すのを忘れるという大失態。よくやるんだよね。公立全寮制男子中高一貫学校の鹿児島県立楠隼中学校・楠隼高等学校のブログもあるらしい。場所だが、鹿児島県大隈半島の田舎にある。鹿児島市内ではない、肝属郡肝付町前田という場所でここにあった高山高校を廃校にしたという経緯がある。東串良町の先にあり鹿屋市が一番近い市ということになる。鹿屋高校という中堅の高校があるのだから、ここを中高一貫学校にすればいいじゃないかと思うのだがそうはならなかったのが不思議なところだ。
副校長が案内と説明をしてくれたのでわかりやすかった。彼によると、一番の長所は必要経費だそうだ。公立のため中学校で寮費、授業料入れて月最大67,000円、高校で月最大71,900円。ラ・サールと比較するとほぼ半分で済む。
校舎はまあなんということはない、いかにもリニューアルしましたという感じ。渡り廊下で寮に入ると贅沢にも木をふんだんに使った内装で全室個室。風呂はそう上場企業の社員寮ぐらいの大きさであろうか、ランドリーもあったが基本クリーニングに全部出すそうだ。個室もこじんまりとしているが、新築なので清潔そのものだ。まだ一棟だけだが新入生が増えるともう一棟建設予定だ。舎監は先生が務めることになるそうだ。保健室や学習室、メディアスペースなど必要十分だった。ただ、ひとつ気になったのは携帯電話の使用禁止措置だ。他のIT機器は使っていいのだろうが、この田舎では光もWiMAX2+もつながらないだろう。となると学校内のVPNかLANということになるのだが、見たところ回線が個室に来ている様子はない。WiFiで各室をつなぐのはセキュリティ上ありえないだろう。となると、IT的には嬉しい状況ではなさそうだ。今どきのIT機器はインターネットとすべて結びついているので実質IT機器はかなり制限されていると断言してよいだろう。年頃の少年にそれは我慢できるのだろうかと思った。ちょっと抑圧的というか犯罪を恐れるあまり画一的な対応になっていないか。IT関係はみすぼらしい環境のようだ。改善を望みたい。グラウンドは広い、ラグビーやサッカーの地方大会を開けるほどだ。若干、高台にあるので見晴らしも良い。
授業料が安く済むのはありがたいことだが、これは公立ゆえの話。先生が公立かどうかわからないが、公立私立にかかわらず熱心で指導上手なら安心できるのだがそうなるかどうか始まってみないとわからない。福岡他の私立学校が鹿児島県教育委員会に、こんな学校作ってもらったら困るみたいな申し入れをしたらしい。確かにあからさまな公立版ラ・サールに見えるかもしれない。なぜ僻地の学校を廃校にしてまで男子校なのだという意見もある。なぜ女子を排除するのか、周囲の学校を次々と廃校統合しておきながらこの学校に巨費を投じるのはなぜか?鹿児島県の税金を使ってなぜ都市の子弟を育成しなければいけないのか、等々。校舎のリニューアル、寮の建設等40億ぐらいかかっているらしい。一方、お隣の志布志市にある志布志高校の英語科は2012年に廃科、英語科は女子の数少ない有望な進学先だ。鹿児島県の女子の進学率は日本で一番低い。元々男尊女卑の文化だ。もちろん、男女別の学校というのは九州や東日本ではよく見かけるので鹿児島だけが特別というつもりはないが、志布志事件を覚えているだろうか、21世紀に入って捜査のために警察が踏み絵を強制して日本中を震撼させたあの事件だ。そういう気風が残っている土地柄だということは忘れなくてもいいだろう。
最近、ニュースで知ったのだが、志布志市の隣りにある曽於郡大崎町では"大崎事件"という今も再審が続く冤罪事件があったらしい。しかも、この事件を手がけたのが志布志署だったとのこと。時は大きく隔たれているが、やはりこのあたりは怖いエリアだ。<uploaded 26/Jul/2017>
それはさておき、近くの鹿屋市は自衛隊基地があることで有名だが自衛隊=もう軍と言っていいでしょうか、基地のおこぼれにかまけて市独自の文化を育成してこなかったつけがまわって今は衰退市町の一つとなっている。昔は基地のおかげで色街もあり賑わいがそれなりにあったと聞く、だが、基地を呼び込むと色街ができ一時的には賑わう、人口も増える。もちろん、風紀が乱れるといったマイナス面もある。だが基地が移転したり廃止されたりすればそれで終わりだ。これは世界中で見られる光景だ。沖縄だけではない。お偉いさんは色街のことは決して言わないが、色街があるから基地があるのではない。基地があるから色街ができるのだ。文化風俗を悪し様に言うつもりはないが、その前にやることがあるだろう。貧困から起こる風俗をとやかく言うのではなく、そうなる前にどういう手を打つかだろう。本来的には地方の強みである物産の開発や振興を地道にやっていかねばならない。鹿屋市には何回か通ったが中心街は空洞化が進み、旧市街のため道が狭くごちゃごちゃしていて都城市のようにすっきりしていない、土地の高低さも大きい、市外へたとえば鹿児島市に通勤している人も多い。夕方から夜にかけて鹿児島市内から鹿屋市周辺へ戻る車で道は混み合う。
近くには志布志国家備蓄石油基地や、JAXAの内之浦宇宙空間観測所があったりするので、これら自衛官や技術者たちの子弟のための学校かと穿った気持ちにもなる。鹿児島市にある同じような私立のラ・サール中学校・高等学校に送り出すには遠いしお金も倍かかるしといったこともあるだろう。
近隣の曽於郡大崎町の有明高校は今年の三月で廃校、最後の卒業生36人という生徒数のあまりの少なさに廃校やむなしと思う。指宿市の山川高校も廃校危機迫る。過疎化、少子化で統合は待ったなしの状況だ。しかし、統合だけでは今後統合された学校に通う不便さはどう解消するつもりなのだろうか。通学バスを走らせればその運営資金さえない。もはや、地方は統合より男女問わずすべて全寮制型へ統合すべきなのではないか。
そのまたお隣の曽於市では市内の高校をすべて廃校にして一校に統合、それぐらい過疎化、少子化が進んだ地域ということだ、だからこその中高一貫校とも言いたいのかもしれないが、それなら、渋谷幕張校のように進学校でありながら男女一緒にするか、少なくとも半分の20億を使って女子中高一貫学校を作るべきだったろう。
さて、話を元に戻そう。募集定員は60名の少数精鋭だ、先生も広く募集中なので意欲的な先生が集まるのではないだろうか。試験も鹿児島だけでなく東京、大阪、福岡で受けられるのでこれはありがたいところ、実際に東京からの受験生は3割を超したそうだ。ラ・サールの併願校なのかもしれないが、どこまで偏差値は伸びるのだろうか、今年初めての新入生を迎えたので格付けはこれからだろう。
教育委員会は宇宙と中国をやたら結びつけているが、これは地理的なもので後付けっぽい。いろいろ書いたが知事の圧力かそれに応えた教育委員会なのかわからないが、沖縄、九州の最低賃金の低さを背景にした子供たちへの教育投資が苦し紛れのエリート育成に終わるのではなく、教育の底上げをどのようにして行うかということをもっと身を切って考えてもらいたいものだ。そうはいっても、国から自治体への大規模な予算で成り立つ地方自治体経営は自ら税制を立てることがなかなか難しく一本立ちさえ大変なのはわかるが、やりきる姿勢さえ見えてこないようではやはり保守王国鹿児島だからなのかと思われてしまうだろう。
開校時の最初の卒業生の進路結果が出た。36人中約1/3が国公立大学に進んでおり、私立大学も1/3進学している。後の1/3はどうなったのだろうか。初年度の学生たちはよく頑張ったと言えるだろうし、それなりの学力の生徒が集まったようだ。今後の卒業生がどうなるか見ものだ。高校入学者の定員割れが続いているらしいが、わからないでもない。ある程度の学力の生徒は鹿児島市内の鶴丸高校などに行きたいだろうし、寮生活を今時6年も続けたいとゲーム好きの子どもたちが思うだろうか?それでなくても寮費が高い。全国的に見ても所得の低い鹿児島県民で賄える適正費用なのだろうか。医者が子弟をここにわざわざ入学させるとは到底思えない。
男女共学にして制服は男女とも格好よく可愛らしいブレザーにして、寮費は補助金をあえて出す。また、通学も可能とする。徹底的に受けを目指す、というのもありだろう。まあ、50億円と言われている初期投資を回収するのは到底無理だろうが...
もう仕方がないので廃校にして、航空工学でも学べる全寮制の共学県立単科大学にでもしちゃいなよ、とか思う。近くに、国立の鹿屋体育大学もあることだし...(追記/19,Jun/2018)
広島県立広島叡智学園という中高一貫校が、2019年4月に開校する。ここも公立で全寮制だが男女共学のようだ。倍率も高い。寮費も月額4万円ほどとそこそこだ。インターナショナルな学風を意識しているが、良質な先生を集められるか心配だ。どうみても、赤字経営だと思うが公費で賄うだけにどういう制度設計なのか気になるところだろう。保護者の負担軽減制度があるといっても、寮費が無料になるわけではないだろうから、一定の収入未満の家庭ではやはり無理だろう。しかも、県外入学を認めているのだから、どこまで卒業後、県に成果のリターンがあるか疑問だ。<追記/27/JAN/2019>
常日頃の備忘録。どこかに行ったり、食べたり、本を読んだり、友と語らったり、映画を観たりしてインスパイヤーされたことなどを綴っていく個人的感想集です。タイトルは、これまで突っ走ってきたけれどまだ残りの人生があるだけめっけもんということからつけました。
2015年4月24日金曜日
「アルジャーノンに花束を」読了。やはり1950年代後期アメリカSF文学の傑作だった。
アルジャーノンに花束を〔新版〕(ハヤカワ文庫NV)
<ダニエル・キイス/小尾美佐訳/早川書房>を初めて最後まで読んだ。書き出しが愚鈍な少年の文章から始まるのでどうにも読みづらく、愚鈍な少年はこんなにうまく書けないよ、とかいろいろ考えてしまいずっとそのままにしていたのだが、硬い本ばかり読んだ後は小説がいいので重い腰を上げてやっと読み切った。


「アルジャーノンに花束を」
素晴らしい本だった。栄養に役立たない甘ったるいケーキのような、大量に出版される凡百のSFジュブナイルとは違う。感心し反省し生きる栄養素を分けてもらったそんな気にさせてくれる、そして読ませてくれて本当にありがとうと感謝の気持ちさえ沸き起こる、読んで本当に良かったと思わせる本だ。こういうのが文学だと思う。
もっと早く読むべきだったが今読んでもほとんど古さを感じない。もちろん、アメリカのロボトミー手術を背景にしているところや、大脳生理学の現在の隆盛で主人公の状態も説明できる。それぐらい飛躍的にこの分野の発展が目覚しいし、主人公の天才的な解答も現在では画期的というわけでもないが、当時のことを考えるとこの時期これだけ書けているということは、十分SF的未来を予測していると言える。
作者は人間の持つ本来の温かさ、優しさは知識の増大に比して無くなっていくことを言っているのかもしれない、あるいはそういう社会になっていくアメリカへの批判と懸念も入っているかもしれない、われわれ自身への反省を込めているのかもしれない。
元からの知的障害者と愚鈍レベルの障害者に対する対応の仕方も昔と変わらない。われわれは前者には眼をそむけ見なかったことにし、後者には好奇と興味の眼を注ぐ。私も例に漏れず小学生時代、道をふらふら歩く愚鈍の少年をみんなでからかっては追っかけられたりしたものだ。昔は親たちも生きるのに必死で男の障害者はほっておかれたりしたからかもしれない。当時も罪悪感はあったが今から考えるとみんな酷いことをしたものだと思う。
みんな同じにんげんなのだ。ここは原始時代ではない、みんな社会を構成する一員なのだ。お互いに助け合うべきだし、そのための知識でなければいけないのだ。そう感じた。
「アルジャーノンに花束を」
素晴らしい本だった。栄養に役立たない甘ったるいケーキのような、大量に出版される凡百のSFジュブナイルとは違う。感心し反省し生きる栄養素を分けてもらったそんな気にさせてくれる、そして読ませてくれて本当にありがとうと感謝の気持ちさえ沸き起こる、読んで本当に良かったと思わせる本だ。こういうのが文学だと思う。
もっと早く読むべきだったが今読んでもほとんど古さを感じない。もちろん、アメリカのロボトミー手術を背景にしているところや、大脳生理学の現在の隆盛で主人公の状態も説明できる。それぐらい飛躍的にこの分野の発展が目覚しいし、主人公の天才的な解答も現在では画期的というわけでもないが、当時のことを考えるとこの時期これだけ書けているということは、十分SF的未来を予測していると言える。
作者は人間の持つ本来の温かさ、優しさは知識の増大に比して無くなっていくことを言っているのかもしれない、あるいはそういう社会になっていくアメリカへの批判と懸念も入っているかもしれない、われわれ自身への反省を込めているのかもしれない。
元からの知的障害者と愚鈍レベルの障害者に対する対応の仕方も昔と変わらない。われわれは前者には眼をそむけ見なかったことにし、後者には好奇と興味の眼を注ぐ。私も例に漏れず小学生時代、道をふらふら歩く愚鈍の少年をみんなでからかっては追っかけられたりしたものだ。昔は親たちも生きるのに必死で男の障害者はほっておかれたりしたからかもしれない。当時も罪悪感はあったが今から考えるとみんな酷いことをしたものだと思う。
みんな同じにんげんなのだ。ここは原始時代ではない、みんな社会を構成する一員なのだ。お互いに助け合うべきだし、そのための知識でなければいけないのだ。そう感じた。
2015年4月17日金曜日
「なぜ日本は<メディアミックスする国>なのか」読了。気づかせてくれる本だった。
なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか (角川E-PUB選書)
<マーク・スタインバーグ>日本とアメリカのアニメーションの違いなどを論じており立派な比較文化学となっている。今までぼんやりと思っていたことを体系化していてタメになった。


「なぜ日本は<メディアミックスする国>なのか」
日本のメディアミックスはオリジナルの言葉であること、アメリカではトランスメディア・ストーリーテリングでありコンバージェンスであることや、日本のアニメはリミテッド・アニメーションであること、キャラクター(動かない)が中心であること、など。
自分の軌跡を反省した。もっと、キャラクターを根本に据えるべきだったのだ。世界を作るべきだったのだ。狭い世界でしかものを考えていなかった、などなど...
メディア・ミックスの語源をめぐる研究は確かにここに書いてあるとおりの年代で間違いないし、角川が歩んできた道筋も間違いない。ただ、かなり試行錯誤している時代もあったし多分に後付けな面もあったと思う。
大塚英志の解説もよくフォローされている。ただ、「新しいメディアミックスが発生するとすればもっと別な結節点からではないかと考えているが、...」と訳者の中川譲が言っていることには作者よりもこちらに同意だ。
他には、イタリアの政治評論家マウリツィオ・ラッツァラートの"マルクス主義の定義をひっくり返してみよう。資本主義は生産の様式ではなく、様式を生産し、世界を生産するものなのだ。表現による世界の実現とその主観性、認識の創造と実現は、経済的な生産に先行して存在する"や"消費とは、政治経済学や評論家が言うような商品やサービスを購入したり破壊したりすることではなく、まず世界に所属するための手段であるからだ"<Les revolutions du capitalisme
(資本主義の革命)より引用>などなかなか示唆的な引用が印象に残った。マウリツィオ・ラッツァラートの分析は、東浩紀の動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
で展開した議論と近い部分があるそうだ。この二人の著作は読んでみる必要がありそうだ。
「なぜ日本は<メディアミックスする国>なのか」
日本のメディアミックスはオリジナルの言葉であること、アメリカではトランスメディア・ストーリーテリングでありコンバージェンスであることや、日本のアニメはリミテッド・アニメーションであること、キャラクター(動かない)が中心であること、など。
自分の軌跡を反省した。もっと、キャラクターを根本に据えるべきだったのだ。世界を作るべきだったのだ。狭い世界でしかものを考えていなかった、などなど...
メディア・ミックスの語源をめぐる研究は確かにここに書いてあるとおりの年代で間違いないし、角川が歩んできた道筋も間違いない。ただ、かなり試行錯誤している時代もあったし多分に後付けな面もあったと思う。
大塚英志の解説もよくフォローされている。ただ、「新しいメディアミックスが発生するとすればもっと別な結節点からではないかと考えているが、...」と訳者の中川譲が言っていることには作者よりもこちらに同意だ。
他には、イタリアの政治評論家マウリツィオ・ラッツァラートの"マルクス主義の定義をひっくり返してみよう。資本主義は生産の様式ではなく、様式を生産し、世界を生産するものなのだ。表現による世界の実現とその主観性、認識の創造と実現は、経済的な生産に先行して存在する"や"消費とは、政治経済学や評論家が言うような商品やサービスを購入したり破壊したりすることではなく、まず世界に所属するための手段であるからだ"<Les revolutions du capitalisme
2015年4月16日木曜日
「メディアの仕組み」読了。E-bookで十分。
メディアの仕組み
<池上彰・津田大介/夜間飛行>毎度、毎度思うのだがどうして対談モノをわざわざ単行本にするのだろうか。紙の無駄だよ。話し言葉は文章のように組み立てられて話すわけではないから、ひとつひとつが単文で構成されている。つまり、さらさら読めるのだから携帯などで流し読みが可能なメディアに向いている。二人が話している内容に少しは興味があるのだから、安価な値段で書き起こしてDigital化してもらったほうがよほど気が利いている。くだらない話をしているわけではないのだから、それぐらいの価値はあると思う。


「メディアの仕組み」
中身だが、津田氏が"新聞社は過去記事のデータベース化に力を入れるべきだ"と語っているがこれは確かにそう思う。昔、パソコン通信のNifty-ServeがG-Searchというデータベースを持っていて、これが結構役に立った記憶があるが今では富士通がなんだか管理しているようだ。知らなかったよ、というか開放してくれないかな。
まあまあの内容だった。
「メディアの仕組み」
中身だが、津田氏が"新聞社は過去記事のデータベース化に力を入れるべきだ"と語っているがこれは確かにそう思う。昔、パソコン通信のNifty-ServeがG-Searchというデータベースを持っていて、これが結構役に立った記憶があるが今では富士通がなんだか管理しているようだ。知らなかったよ、というか開放してくれないかな。
まあまあの内容だった。
2015年4月1日水曜日
一昨日は飯田橋のイタリアンレストラン''Luce(ルーチェ)"で美味しくディナーをいただく
一昨日は飯田橋のイタリアンレストラン''Luce(ルーチェ)"で美味しくディナーをいただいたのだ。場所は、飯田橋と九段下を通る大きな道路を一本入った道路沿い。大神宮会館寄りの道だね。
またまた写真を用意するのを忘れちゃったけれど(次回までに撮っておきます)、大変美味しいお店だ。ここは知人とその秘書さんとよく行く所なのだが、こじんまりとしていて温もりがあり雰囲気もいいお店だと思う。
昨夜はワインを飲んだのだが、最初は白、次に赤、どれも軽くて飲みやすく、いつも悪酔いする私が次の日まで全く残らず爽やかな朝を迎えることができた。こんなことは滅多にないことで体調も良かったのだろうが、ソムリエの資格も持っているという秘書さんのチョイスもナイスだったに違いない。もちろん、そのチョイスに合うワインを出してくれる辺りはお店もなかなかの実力と言えるだろう。
仕事でプリンタの設定をしていたため、夜遅めになって行ったのだが、2席ほどしか空いてなく、しかも閉店間際にも団体客がどっと入ってきていた。団体客は2軒目らしくデザートとコーヒーぐらいしか頼んでいなかったが、快くオーナーマダムがサーブしていた。
メニューはアスパラの肉巻きとソース和え、筍のサラダ、それとなんとかスパゲティ、ミルクとチーズ漬けのブレッドにガーリックトースト、それにカツレツを頂いた。サラダは普通の印象だったが、他は美味しかった。私はここのカツレツが大好きだ。揚げが程よくサクサクしていて香辛料がうまく効いている。最後にミルフィーユとエスプレッソをデザートに頂いたがミルフィーユも大変美味しかった。値段は味相応なリーズナブルプライスだ。とにかく、肩肘はらずに入店できるところでお勧めだ。一昨日は、学生さんのグループも楽しく食事していたし、サラリーマンと何人かの女性たちも団体で来ていたので、顧客層は良い。デートにも最適だ。
デートなら飯田橋近辺で待ち合わせて、縁結びで有名な東京大神宮までブラブラ散歩。実は私ここが縁結びで有名な神宮だったとはつい最近教えられるまで全く知らなかった。このそばを通るといつも若い女性が多く、なぜ若い女性がたくさん?と思ってはいたのだが、そういうことだったのね。そこで二人の縁を願った後、下ればLuce(ルーチェ)だ。中でちゃんと食事をするも良し、軽く食事とデザート、エスプレッソを頂くも良し。帰りは、飯田橋サクラテラス辺りをブラブラしっぽり、という寸法でどうだろう。
またまた写真を用意するのを忘れちゃったけれど(次回までに撮っておきます)、大変美味しいお店だ。ここは知人とその秘書さんとよく行く所なのだが、こじんまりとしていて温もりがあり雰囲気もいいお店だと思う。
昨夜はワインを飲んだのだが、最初は白、次に赤、どれも軽くて飲みやすく、いつも悪酔いする私が次の日まで全く残らず爽やかな朝を迎えることができた。こんなことは滅多にないことで体調も良かったのだろうが、ソムリエの資格も持っているという秘書さんのチョイスもナイスだったに違いない。もちろん、そのチョイスに合うワインを出してくれる辺りはお店もなかなかの実力と言えるだろう。
仕事でプリンタの設定をしていたため、夜遅めになって行ったのだが、2席ほどしか空いてなく、しかも閉店間際にも団体客がどっと入ってきていた。団体客は2軒目らしくデザートとコーヒーぐらいしか頼んでいなかったが、快くオーナーマダムがサーブしていた。
メニューはアスパラの肉巻きとソース和え、筍のサラダ、それとなんとかスパゲティ、ミルクとチーズ漬けのブレッドにガーリックトースト、それにカツレツを頂いた。サラダは普通の印象だったが、他は美味しかった。私はここのカツレツが大好きだ。揚げが程よくサクサクしていて香辛料がうまく効いている。最後にミルフィーユとエスプレッソをデザートに頂いたがミルフィーユも大変美味しかった。値段は味相応なリーズナブルプライスだ。とにかく、肩肘はらずに入店できるところでお勧めだ。一昨日は、学生さんのグループも楽しく食事していたし、サラリーマンと何人かの女性たちも団体で来ていたので、顧客層は良い。デートにも最適だ。
デートなら飯田橋近辺で待ち合わせて、縁結びで有名な東京大神宮までブラブラ散歩。実は私ここが縁結びで有名な神宮だったとはつい最近教えられるまで全く知らなかった。このそばを通るといつも若い女性が多く、なぜ若い女性がたくさん?と思ってはいたのだが、そういうことだったのね。そこで二人の縁を願った後、下ればLuce(ルーチェ)だ。中でちゃんと食事をするも良し、軽く食事とデザート、エスプレッソを頂くも良し。帰りは、飯田橋サクラテラス辺りをブラブラしっぽり、という寸法でどうだろう。
2015年3月29日日曜日
鹿児島県曽於郡大崎町の道の駅「野方あらさの」に寄ってみたのだが、超手抜き"道の駅"だった
2月に鹿児島県に行ってきたので、鹿屋市方面から鹿児島空港に行くついでに、曽於郡大崎町に新しくできたという道の駅「野方あらさの」に寄ってみたのだが、ちょうどオープンだとかでそれはいいのだが、なんというか...超手抜き"道の駅"だった。

野方あらさの看板
交通の便は、東九州自動車道野方ICと県道64号線と重なる所に位置して、場所はいい所だと思うが、一度ICを降りなければいけないのが面倒。

野方あらさの道の駅と併設するコンビニのLAWSON
行ってみたらなんとLAWSONしか見当たらない。特産品はどこ?休憩できる所はどこ?

こちらが野方あらさの道の駅
道の駅はこのわずかなスペース、"情報・休憩コーナー"だけだったのだ。

野方あらさの"情報・休憩コーナー"の室内
室内はゆっくりできるどころか固い木の椅子とテーブルで片付けと清掃がしやすく長時間居座れないような作りになっている。窓が少なく小さいので薄暗い。開放感は全くない。

野方あらさの"情報・休憩コーナー"の情報コーナー
情報コーナーと言っても、モニタが三種類置いてあるだけで、しかもむやみにインターネットサーフィンできないようにフィルターがかかっている。しばらく見ていたが誰も触る人はいなかった。
いやあ、いろいろ"道の駅"を見てきたが、ここまで手抜きの道の駅は初めてだ。いかにも、土地だけ町が用意したので"道の駅"を作りたい業者は手を挙げてもらってどうぞ運営して下さい、あ、ついでに道の駅施設も作ってね、でもって、施設使用料は毎月頂きますよ、という感じではないか。
がっかり感100%!!LAWSONが悪いと言っているわけではない。便利だとは思うが、わざわざ道の駅の看板をつける必要性はないと思う。羊頭狗肉とはこのことだ。
いや待てよ、確か高速道路のどこかのPAにもこういうタイプがあったと思う。PAだ、休憩しようと思ったらファミマでがっかり、というパターンだ。コンビニに置いてあるお土産はたくさん数がないし、妙にちんまりしているし、買う気になれない。いずれにしろ、PAの運営会社になろうとかいって手を挙げる所がなくてコンビニが入ったのだろうか?確かに、位置的に素通りしてしまうPAやSAはある、NEXCOとかの管理手数料が高くて払えないのかもしれない、だが!やはりその土地ならではのお店が出店して欲しいものだ。
2015年3月24日火曜日
「アダム・スミスとその時代」脚注不足だったけれど良い本だった
アダム・スミスとその時代
<ニコラス・フィリップソン/永井大輔訳/白水社>


「アダム・スミスとその時代」
不満点
ホラント→オランダのことらしい
コレッジ→カレッジのことらしい
いきなりホラントと書かれてもなんだ?と思っちゃうよね。そりゃ英語的には正しいんだろうけれど...馴染みのあるカタカナにするか、予め断って欲しいものだ。
長老派→えーと、何だったっけ、キリスト教の一派?
穏健派→えーと、何だったっけ、キリスト教の一派?アメリカにもあったような...
ウイッグ党→えーと、何だったっけ、キリスト教の一派?
トーリー→えーと、何だったっけ、なんか党じゃなかったっけ。
ジャコバイト→えーと、何だったっけ、ラッダイト運動のことじゃないよね。
高教会派→えーと、何だったっけ、キリスト教の一派?
とまあ、とまどいながら読み進めたのだが...昔、世界史で習ったような語句が出てきたけれど、復習の意味で用語解説して欲しかったな。あるいは表にしてくれば一目瞭然だったのに...
細かい不満はあったけれど、アダム・スミスの思考の伝記としてとても面白かった。ヒュームに影響を受けていたことは知っていたけれど、ヒュームもスミスもその人間学とも言うべき目指した学問の広さと高みには驚いた。スミスの生れ落ちた時期も幸運だった。地元の都市グラスゴーやエディンバラが商業的に勃興する時代であったり、東インド会社の危機、アメリカの植民地問題など新時代の息吹を間近で見聞きできたのは学説の例証にかなり役立ったようだ。また、アダム・スミスと言えば経済学の祖などと呼ばれているが、実際には法学、哲学、倫理学、人類学、社会学、果ては美学など知の巨人と呼ぶべきほどの足跡を残した偉大なる学者であったことがよくわかった。
"フランスとイングランドは、双方とも相手の陸海軍力の増大を恐れる理由をそれなりにもっているかもしれない。しかし両国のいずれにとっても、相手国内の幸福と繁栄に対して、すなわち国土の耕作、製造業の発展、商業の増大、港湾の安全性と総数、すべての人文学および科学の進歩に対して嫉妬するのは、間違いなく、かくも偉大な二国の尊厳にふさわしくないことである。これらはすべて、われわれが生活しているこの世界の、真の改良なのである。それらによって人類は便益を受け、人間本性は品位を高める。各国はそうした改良において自国が卓越するように努力するべきだが、それだけでなく、人類愛に基づいて、近隣諸国が卓越するのを促進するべきであって、妨害するべきではないのである。これらはすべて、国同士の競争対象としてふさわしいのであって、国同士の偏見もしくは嫉妬の対象なのではない。"<P362引用>
日本も近隣諸国もこのような精神でありたいものだ。
「アダム・スミスとその時代」
不満点
ホラント→オランダのことらしい
コレッジ→カレッジのことらしい
いきなりホラントと書かれてもなんだ?と思っちゃうよね。そりゃ英語的には正しいんだろうけれど...馴染みのあるカタカナにするか、予め断って欲しいものだ。
長老派→えーと、何だったっけ、キリスト教の一派?
穏健派→えーと、何だったっけ、キリスト教の一派?アメリカにもあったような...
ウイッグ党→えーと、何だったっけ、キリスト教の一派?
トーリー→えーと、何だったっけ、なんか党じゃなかったっけ。
ジャコバイト→えーと、何だったっけ、ラッダイト運動のことじゃないよね。
高教会派→えーと、何だったっけ、キリスト教の一派?
とまあ、とまどいながら読み進めたのだが...昔、世界史で習ったような語句が出てきたけれど、復習の意味で用語解説して欲しかったな。あるいは表にしてくれば一目瞭然だったのに...
細かい不満はあったけれど、アダム・スミスの思考の伝記としてとても面白かった。ヒュームに影響を受けていたことは知っていたけれど、ヒュームもスミスもその人間学とも言うべき目指した学問の広さと高みには驚いた。スミスの生れ落ちた時期も幸運だった。地元の都市グラスゴーやエディンバラが商業的に勃興する時代であったり、東インド会社の危機、アメリカの植民地問題など新時代の息吹を間近で見聞きできたのは学説の例証にかなり役立ったようだ。また、アダム・スミスと言えば経済学の祖などと呼ばれているが、実際には法学、哲学、倫理学、人類学、社会学、果ては美学など知の巨人と呼ぶべきほどの足跡を残した偉大なる学者であったことがよくわかった。
"フランスとイングランドは、双方とも相手の陸海軍力の増大を恐れる理由をそれなりにもっているかもしれない。しかし両国のいずれにとっても、相手国内の幸福と繁栄に対して、すなわち国土の耕作、製造業の発展、商業の増大、港湾の安全性と総数、すべての人文学および科学の進歩に対して嫉妬するのは、間違いなく、かくも偉大な二国の尊厳にふさわしくないことである。これらはすべて、われわれが生活しているこの世界の、真の改良なのである。それらによって人類は便益を受け、人間本性は品位を高める。各国はそうした改良において自国が卓越するように努力するべきだが、それだけでなく、人類愛に基づいて、近隣諸国が卓越するのを促進するべきであって、妨害するべきではないのである。これらはすべて、国同士の競争対象としてふさわしいのであって、国同士の偏見もしくは嫉妬の対象なのではない。"<P362引用>
日本も近隣諸国もこのような精神でありたいものだ。
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