2017年7月20日木曜日

「現代ゲーム全史」読了。視点良し、けれども、それぞれのゲーム批評は別にして欲しかった

現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から<中川大地/早川書房>。視点良し、けれども、それぞれのゲーム批評は別にして欲しかった。

序章と第1章、第11章と終章だけでまとめて"ポスト・ゲームニズム"とか"ゲームの果てに"とかいうタイトルで、著者の哲学的、社会学的、人類学的見識を十分に発揮して、今のゲームの始まりは、ナチスドイツのユダヤ人迫害から全てが始まり、広島。長崎への原爆を経て東日本大震災を持って収束し、新たな収斂を見せていくだろうという見解を打ち出した新書を出版してくれればそれで十分なのでは。個々のゲーム批評は表で良かったろう。この本はマクロ史観とミクロ分析が混ざり過ぎ。




良かった点は、たとえば、私は前から、なぜ日本政府は、原発事業者の賠償責任を一定額で打ち切るのだろうか?と疑問に思っていたのだが、それに対する回答が書かれている。

これは、"プライス・アンダーソン法"という法律が1957年AEC(Atomic Energy Commisiion)の委託で、大規模原発で重大事故が起きた場合の被害に関する理論的可能性を予測した「WASH・740」というレポートを提出している。このAECが出資してできたのが、平和利用を目的としたブックヘブン国立研究所で、他にABCC(原爆傷害調査委員会)もできている。データ収集のために、日本人をモルモットとして一切の治療行為を行うことなく放射線がもたらす人体への影響の本格調査に乗り出している。
中略
政治と先端科学がかつてない接近状態にあって駆動される戦後アメリカの軍産学複合体の下では、平和産業の創出と戦争状態の継続に、本質的な違いはなかったのである。

ここまで割愛しながら引用

一部知っている事柄ではあったが、その出自と系譜を辿っていけば、原爆の科学的利用とそこから抗議するように出てきたゲーム、そしてVRからARへ<競技>の文明と<遊戯>の文明の融合へ、遊戯文明が導く新たな文明とは?と続いていくのを示唆する。

なるほど、ゲームをそこまで大きく捉えるか、という感じだが、この本はまさしくゲームに関わる全員に読んで欲しいと思った。ゲーミフィケーションが論議される昨今、人類があらゆることを成し遂げた結果として残るものが平和=遊戯ではないかと思ったりもするのだ。

悪い点も書いておこう。批評するセンテンスは、著者のアカデミック志向で固い表現なのだが、個々のゲーム批評は、ゲーム誌の批評文のような言葉で違和感があった。しかし、これは、著者も書いているように、書くのが遅れて第4章以降が、メルマガ連載記事でもあったことから、スタイルが異なるのであろう。

また、1980年代はゲームの勃興期でもあったが、

1983年:ファミコン発売
1984年:パックマン事件結審
1985年:ゲームソフトがプログラムの著作物として著作権法に明記される

こういった時代背景からゲームがベンチャービジネスとして、その後かなりの数の参入を促したのは間違いないし、日本の国としての著作権保護がゲームを幅広く浸透させ、U.S.A.はどちらかというとコンピュータからの派生品として生まれてきたという違いが、21世紀に入っても未だに抜きがたく残っているといった観点も欲しかった。




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